ミネルバ書房 環境と共生する「農」より

未来のために必要なこと (2014年春脱稿・2015年4月刊行)

1.私はこうして農業に関わるようになった
エネルギー問題への関心
解消しない疑問
脱サラして考えたこと
高校教員の日々と就農へのヒント
農の世界へ
師匠との出会い

2.伊賀ベジタブルファームの取り組み
伊賀ベジタブルファームの取り組み
伊賀ベジのミッションは「いい仕事」
農業という仕事
有機農業のリスク管理
PDCAサイクル
伊賀ベジの組織運営
人材の採用と育成について

3.有機農業の技術について思うこと
植物生理の基本
化成肥料を使わない理由
資源循環の取り組みと化成肥料
有機物の肥効をコントロールするために
農薬のこと ― EUのネオニコチノイド規制をうけ
農薬を使わないということ — ハンデをチャンスに

4.農業者連携について
生産者連携の必要性
協議会設立の背景
生産者の巻き込み
「伊有協」の主な活動と今後の展開


1.私はこうして農業に関わるようになった

 エネルギー資源問題への関心

私は忍者の里で有名な三重県伊賀市で、トマトや小松菜など十数種の野菜の有機栽培に取り組んでいる。本格的に農業に関わりはじめて今年で10年目。本稿では私が脱サラして農業を始めるまでの道程について説明した後、農場を法人化して立ち上げた伊賀ベジタブルファームの農業経営の特徴、そして伊賀地域の農業者連携の取り組みなどについて紹介していく。

私が就職したのは1999年、二六歳のときだった。大学で物理学を学び、その後大学院に進学して熱力学のエントロピーという概念を用いて、地球温暖化やエネルギー資源の問題について研究していた。だが、研究者として大学に残るより、学んだことを世の中で実践して生きていくほうが性に合うと感じ、当時「ゼロエミッション」(0排出)という看板を掲げて環境問題に積極的に取り組んでいた会社に入社した。

はじめはゴミ焼却炉の設計に携わろうと考えていたが、配属されたのは燃料電池システムの開発チーム。一般家庭で都市ガスや灯油などを燃料にして発電して電力を「自炊」し、電気にならなかったエネルギー(排熱)を給湯に使う、コージェネレーションと呼ばれる技術の応用だった。

当時はまだ開発も端緒期。経営陣から示される事業計画やマーケッティング情報をもとに仕様を決め、機械、電気、化学、制御など各分野のエンジニアが知恵を出し合い、「無い」ものを「在る」ものにしていく。様々な角度から議論を重ね、実証試験を繰り返しながら製品を作り上げるプロセスを経験できたことは、他では得難い貴重なものとなった。

この会社には四年足らずの間お世話になり、その間に基本的なビジネス作法から、ものづくり業務全体のフロー、社会がどうやって成り立っているかまで、本当に色々なことを学ばせてもらった。後に伊賀ベジタブルファームの組織をつくるなかで、ここでの経験が下敷きとなった部分は大きい。

燃料電池開発企業にて

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解消しない疑問

たが、当時の私は仕事に充実感は持ちつつも、一方で何となく居心地の悪さを感じ続けていた。自分は今のままでいいのか、この仕事は本当に皆を幸せにするものか、そんな自問を繰り返していた。

エネルギー資源の先行きについて、世間では楽観的に捉えられていたが、私は学生時代からこの問題を考え続けるなかで、そこに深刻な不安要因があると感じていた。石油や天然ガスなど化石燃料の埋蔵量は限られており、長い期間でみればやがて枯渇するものだ。原子力発電にしてもウラン等の鉱物資源に依存している以上、本質的に持続可能なものではない。かといって太陽光や風力などの自然エネルギーで今の生活レベルを支えるには無理がある。

エネルギー資源の生産が頭打ちになればその価格は徐々に高騰する。原油(あるいは原発)に依存する産業構造はやがて転換を求められるだろう。燃料電池は新たなエネルギー源ではなく、あくまでエネルギーを効率よく使うための発電装置だ。私が取り組んでいた開発の仕事は、エネルギーの枯渇問題に関して「延命」策ではあっても、根本的な解答を与えるものではなかった。

しかし、当時の燃料電池業界では、自動車用エンジンの実証試験が競うように進められ、これがエネルギー問題の究極的な解決策だと言わんばかりに喧伝されていた。開発ラッシュに酔いしれる空気のなか、私はひとり寒々しい気持ちを抑え切れなかったのである。経営者のヴィジョンや業界の言説を聞くなかで、ビジネス戦略としての是非はともかく、私が感じていた長期スパンの不安が共有されることはなかった。

百年も先のことを真面目に考える気持ちがわからないという人は多いだろう。「何があろうと皆で乗り越えて一緒に生きていけばいいじゃないか」と、先を見越してどっしり構えたリーダーがいれば、私もそんな心配は笑い飛ばすことができたと思う。どこかで誰かが状況を把握し、対応を考えてくれている、そういう世の中への信頼感を持ち続けることができればよかったのだ。だが、気づけばそれは自分の手からスルッと滑り落ちていた。目の前の組織や社会に甘えることはできない。といってたかだか入社数年の私には周囲を動かすだけの力量もない。私は置かれた状況のなかで、目の前の開発の仕事に打ち込み続けるしかなかった。

会社員四年目、一人黙々と取り組んでいた業務に区切りをつけると、最終的に会社を去ることにした。2003年のことだった。

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 脱サラして考えたこと

会社を辞めて丸一年、私は「自分探し」と称してあちこちを旅し、本を読みあさり、思索に耽る日々を過ごした。ちょうど30歳。整ったレールの上を歩いてきた自分が社会からドロップアウトしていく。先行きの見えない状況のなかでじりじりとした焦燥感を抱えながら、世の移ろいと自分のこころを見つめ続けた。そこでずっと考えていたテーマは「倫理」。自分が、そして世界の皆が、心から笑って生きていくにはどうしたらよいのだろう。そのための方法、生きるべき道を探していた。

一連の思考の発端は、エネルギー問題を突き詰めて考えたことにあった。現在の先進国の生活水準を持続させうる新たなエネルギー源は無い、それを前提とすればやがて私たちはエネルギーを使わない生活スタイルへと変化していかざるをえない。そうした場面で、人々が自ら欲望を律し、便利さや快適さを手放すことができるだろうか?

便利さ快適さは一種の麻薬であり、常習者にはそう簡単には捨てられない。だが、何かのきっかけで無くてはならないはずのものを失ってみると、実はそれほど大層なことではなかった、と感じられることがある。むしろ意外にすっきりして気持ちよくなることだってあるのだ。例えば通勤を車から自転車に変える、とか、そういうことを一つずつ自発的にできればよいのではないか。

生活をシンプルなものに切り替える。執着しているものを手放せば心はぐっと軽くなる。惰性で続く日常の連鎖を断ち切って、余計なものをそぎ落とすと、自分の「芯」のようなものが浮かび上がる。それは生まれてこのかた、家族や友人、社会、周囲の環境によって支えられつくられてきた、自分の存在の軌跡そのものだ。その「芯」のまわりを廻って日々の小さなことを積み重ね、与えられた道を歩きつくすこと。

大切なのは自分の存在を超えたシステム全体の動きに身を委ねる感覚をもてるかどうかだ。細胞が集まって一つの個体を構成するように。個人が集まって社会を為すように。生物が空気や水と相まって生態系や環境を形作るように。自分とそれを包括する「全体」が表裏一体、常に連動していると感じられるかどうか。

そこで考えたことは、後に私が有機農業という道を選ぶうえで重要な基盤となった。農業を自分が生き残るための手段と見るか、全体システムのなかで与えられた役割と見るか、どちらにバランスを置くかで経営方針は大きく変わる。ミクロ(個)レベルでは農薬や化成肥料を使うほうが便利で効率的に違いないが、マクロ(システム全体)レベルでは環境負荷の増大や多様性喪失といった長期課題への取り組みが求められている。有機農業ははっきり後者に重心を置くアプローチだ。

だが当時、そんな傍から見たら訳が分からないことを毎日考えているうちに、サラリーマン時代の貯えは見る見る無くなっていった。ちょうどそんな折、アルバイトをしていた高校から常勤講師の話をいただいたのだった。

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高校教員の日々と就農へのヒント

その高校は生徒が自らテーマを決めて「探究」に取り組むカリキュラムで全国から注目を集めていた。内容や指導方法は生徒の希望に応じ、また教師のスキルに応じて「オーダーメイド」でつくりあげる。通常の教諭だけではとても手が回らないため、私のような者にも声がかかったのである。

個性を伸ばし、リテラシーを磨いて、時代を生きぬく力をつける。高校生にハイレベルな成果を求めるのは難しかったが、この取り組みを通じて学ぶことへのモチベーションが高く保たれていたのは間違いなかった。私も大学や企業で得た知識を動員して、彼らが持ち込んでくる突拍子もないテーマと格闘し続けた。そのなかで得た経験やノウハウは、今の伊賀ベジの研修生指導プログラムにも生かされている。

しかしこの高校は同時に「超」がつく進学校でもあった。教育のあるべき姿を模索しながらも、府内全域から集まったエリートたちに受験のハードルを越えさせることが最重要という雰囲気があった。物理というとっつきにくい科目を猛スピードで生徒の頭に叩き込む日々のなか、私はエンジニア時代とよく似た疲労感を感じるようになっていた。

詰め込み教育も読み書きそろばん(リテラシー)を身につけるには大切な要素だと思う。ただ、これからの社会を担う若いエリートたちに私が一番伝えるべきことは何か?教員が丁寧に行きとどいたサービス(授業)を提供するのは当然のことのようだが、痒いところに手が届くくらい面倒を見れば見るほど、生徒達は「飼いならされていく」、そんな感触もあった。今の社会を維持するだけならそれでよい。でもこれからの時代切り拓くにはもっと貪欲に生き抜く力が必要ではないか?だが、果たして今の自分にそんなことを伝えるだけの力があるだろうか?

散々逡巡した結果、何よりまず自分自身が道を切り拓くべきだ、ということに思い至った。私は「自立」しなければならない。同僚の一人に、かつて大学の有機農業研究会に所属し、自家菜園を手掛けて自給自足的な生活をしたことのある友人がいた。そんな彼からヒントをもらって、生活の最も基本的なこと、とりわけ「食」に焦点をしぼってみようと考えた。社会が提供してくれるありとあらゆるものに無自覚に甘え、依存し続けることを止め、自分の足でしっかり立てるようになりたい、そう願ったのだ。

それは、「農」の世界に入っていくことだった。自然のなかで身体をフルに使う農的な暮らしに身を置くことで、今までと全く違ったリズムがつくられるのではないか。そうして温故知新、田舎の村の人たちと関わることで、人と人との関係性や社会のあるべき姿についてもヒントをもらえるのではないか。現代の巨大な社会システムのなかで行き詰まり、窒息しかけた自分を鍛え直し、どんなときにも動ぜず泰然と歩いていける力を蓄えたい。そこから「何か」が始まっていけば…と。

学校を退職するにあたっては、同僚の教員達、指導していた生徒にそんな思いを正直に伝えた。非難されることへの恐怖もあったが、こんな大人もいることをありのまま見せるのも教育だと思い直し、顔を上げて笑って去ることにした。生徒は思った以上に好意的に受け止めてくれたし、当時の校長はじめ同僚はこんなつかみ所の無い話を真面目に聞き、最後は背中を押してくれた。有難いことだった。

農の世界へ

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農の世界へ

こうして私の「農」の学びの日々がはじまった。2005年1月からその年の秋頃まで、インターネットなどを通じて就農関係の情報を集め、就農準備校などで講座を受講したり、野菜や米の栽培体験コースに通ったり、農家を訪ねて作業を手伝ったりしながら、農業を取り巻く様々なことについて理解を深めていった。

農作物を育てるための技術、早朝の畑のすがすがしさや目一杯体を使って働いた後の充実感、様々なアウトドアのDIYテクニック、自ら育てて収穫した農産物をいただくこと、数多くの人との出会い、まるで知らなかった世界との出会いはとても新鮮だった。

自給自足的な生活を念頭にこの世界に入ったので、私ははじめから有機農業とか自然農法といった方向に焦点を絞っていた。折しも半農半Xという言葉が使われはじめた頃。動き出した頃は翻訳等のアルバイトをしながら、余分に作った農産物を販売する程度の「農的暮らし」をイメージしていた。

だが、現実的には片手間でできる仕事など、そう簡単には望むべくはずもなかった。30歳そこそこでの就農は、退職後に農業を楽しむのとは全く状況が違う。家庭を持てばバリバリ働かないと食っていけない。自分がプロの生産者としてやっていくのか、別の方法で「外貨」を稼ぎながら農的な暮らしを追求するのか、どちらかを選ぶ決断を迫られる。

だが、実際に何軒かの農家を訪ねてその暮らしぶりに触れるにつれ、この世界で生計を立てていくことの大変さを痛感するようになっていく。考えてみれば当たり前の話だった。素人が突然、明日からパイロットや弁護士になると言えば、誰もが馬鹿らしい話と笑うだろう。農業だってプロの仕事なのだ。既に成熟している産業に新規参入して生き残っていくには、他を蹴散らして伸し上がるくらい、よっぽど突き抜けるものがなければ駄目だ。

では、どこで、どうやってそんな技術を習得したらよいのだろう?実地を学ぶにはプロの元で経験を積むしかない。今でこそ様々な助成制度が整って研修中にも給料が出るのが普通になったが、当時はまだ無報酬、住み込みは当たり前だった。丁稚奉公にも似たシステムは修行のようなもので、本人が精神的な強さを得るうえで一定の効果があるにしても、農家がタダの労働力を使って生活を成り立たせる構造には矛盾を感じざるをえなかった。

活動を始めて9か月ほどたったとき、新規就農者らが数人で運営していた農園に参画させてもらうため、三重県の伊賀地域に移り住むことを決めた。私が志向していた「自給自足」「共同体」的な感覚を共有できそうだと感じたからだ。緩やかなつながりの輪に加わってじっくり腰を据えて農業を学んでいこうと思った。だが、私を受け入れてはくれたものの、その農園はまだ経営的に軌道に乗っておらず、とてもぶら下る余裕はない状態だったのだ。ほどなく生活費などの面で行き詰ってしまう。

第一子が生まれることになったのは、ちょうどそんなタイミングだった。この時点で手持ち資金はほぼゼロ、いや、公的な「就農研修資金」の借り入れを考えればむしろマイナスだった。農業をやめるかどうか真剣に悩んだ末に、誰かに乗っかって楽をしようという考えはきっぱり捨て、想い描く形を自分で実現していくしかない、と独立を目指して走ることを決めた。それからというもの、昼は農業関連の事務の手伝いや農場実習を続けながら、夜は塾講師のアルバイト、日銭を稼ぎながら、何とか農業の知識をつけようと必死でもがき続けた。

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師匠との出会い

そんなある日、土壌分析等を活用して有機でトマト等を栽培している名人を訪ねるチャンスがあった。そこで見た整然として草一つない圃場、立派な堆肥舎、何を聞いても滔々と淀みなく技術的な背景を説明してくれる姿勢に心底感動した。周囲からは相当儲かっているという評判を聞いていたが、圃場を見てすぐに納得した。それは仕事のクオリティの為せる業だ、これぞプロだ、と。すぐにアルバイトをしながら勉強させてもらえないか、とお願いしたところあっさりOKをもらえた。そうして農業をするなら技術をつけてしっかり稼げ、ただ働きは駄目だ、と諭されたのだった。

師匠との出会い

こうして出会った師匠のもとでの研修生活は本当に充実していた。学校や会社でも色々な人に物事を教わってきたが、ここで初めて本当に師と呼べる人に出会えたと感じた。

次はこの品種を試そう、堆肥の成分を変えてみよう、など次々とアイディアが浮かび、すぐに実践していく。作業をすれば無駄のない動き、圧倒的な速さで素人には全然追いつけない。経営効率を追求し、ケチるところは徹底的にケチって投資すべきところにドンと投資する。予断ないとはこういうことだ。空けても暮れても農業のことを考えるその姿勢に引っ張られ、私も純粋に農業という仕事を楽しむことを覚えていった。

研修中は毎日メモ帳を手放さずにメモを取り続けたが、最初のうちは難しくてなかなか話がつながらない。ノウハウがぎっしり詰まった独特な言い回しを理解しきれなかった。幾度か全国の生産者らが集まる「塾」が開講され、そこで繰り広げられるハイレベルな技術論議を目にして圧倒された。この世界、掘っても掘ってもまだ深い。いやぁかっこいい、プロってすごい。いくつもの掛け持ちアルバイトの隙間を縫うように、書籍等を読みあさって知識を整理していった。

そうして師匠のアドバイスに従いながら、独立への道が次第に描かれていく。出荷グループの仲間の紹介で農地を借りることができた。販路についても契約販売の枠を分けてもらい、就農を前提に作付を割り振ってもらえた。徐々に定まっていく諸条件をもとに、5カ年事業計画を詳細に練り込む。手持ち現金は厳しい状態が続いたが、トラクターからビニールハウス(材料のみ)、鍬や鎌に至るまで、就農設備等資金と呼ばれる公的資金の借り入れ(総額440万円)でまかない、必要最小限のものをそろえる目処が立った。(表1)

表1.研修中に要したお金

最終的に師匠のもとでの1年3ヶ月の研修期間を終えて独立を果たしたとき、やるべきことをきちんとやれれば食っていけるはず、というところまでお膳立ては整った。実際、就農して1ヶ月後から売り上げも立ち、最初の数ヶ月を乗り越えた段階で、厳しいながらも何とか農業だけで生計が立てられるようになったのである。

自立とは孤立ではない。自らの足で立つために全力を尽くすうちに、ふと気づけば周囲から手が差し伸べられ、想いが全方位へとつながっていく。自分の生存と安全を守るための「自給自足」ではなく、雨風に打たれながらも頭を上げて立って歩くバランス感覚。私にとって、それが自立の意味であった。

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2. 伊賀ベジタブルファーム㈱の取り組み

伊賀ベジタブルファーム㈱では夏季はトマトを中心とした果菜類、冬は大根やキャベツ・ブロッコリーなど露地モノを主力にしつつ、小松菜やほうれん草などの葉物類を周年切らさない作付け体系をとっている(表3)。扱い品目は現在20種類程度で、どの季節も3品目以上出荷できるようにしている。栽培面積は露地を中心に約2ha(うち施設14a)。栽培方法はすべて化学合成農薬や化成肥料を用いない、いわゆる有機栽培である。

表2.伊賀ベジ概要(執筆当時)
表3. 作付体系

創業以来、こだわり野菜の宅配業者との契約栽培を中心としてきたが、最近は伊賀地域周辺のほか、京都や奈良などの中小規模の卸売業者、小売店への直接販売も増えてきた。畑までわざわざ取りに来てくれる業者も何軒かある。市場への流通はほとんど行っていない。消費者への直接販売は今後展開していく予定はあるが、現時点では農産物売上約2,000万円の大半がBtoB(業者間)取引だ。

就農した当初は資金的に全く後が無い状況だったこともあって、師匠の作型や栽培方針をできるだけ忠実に模倣することに専念した。その後、土質や傾斜といった土地条件の違い、家族やスタッフ構成の変化、新たな販売先の開拓・・・様々な条件と向き合い、模索を重ねるなかで徐々に自分なりのスタイルができていった。ここでは、そんな村山農場~伊賀ベジの特徴や取り組みについて、トピックをあげながら紹介してみる。(就農からの経営的な変遷は表4。)

表4. 経営変遷

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伊賀ベジのミッションは「いい仕事」

伊賀ベジの特徴は、まず、不相応なくらい大風呂敷を広げたミッション意識だろう。(表2)今の時代、ともすれば置き去りにされがちな「文化」や「倫理」といった「キレイごと」を、建前でなく実践し続けるのは容易ではない。スローガンを掲げるだけでなく、仕事の様々な場面、例えば品質基準、価格設定、使用資材の選択や農薬使用の是非、採用や雇用条件などを通じて、一貫して判断基準が貫かれているかどうか、そこが大事だ。

時代を超え、国境を越えて評価される「いい仕事」というものがある。それは職人気質とか、仕事に関する高い倫理性によって支えられるものだ。専門的な視点から相手が必要としているものを見通して、ニーズに寄り添うサービスを提供する。また、商売を安定して長く続けるためには、ただ売れればよいのではなく、仕事に関わる過程のなかで社会や経済、周囲環境に対して与える諸々の影響を意識し続けなくてはならない。

伊賀ベジが常にそうした「いい仕事」を提供できているか、といえば正直まだまだもの足りない。だが、専門家として技量を磨き、より良いものを追求し続けるチームを目指し続けているのは確かだ。「いい仕事」を実現するには、いつでも何にでも即応する緊張感と、広い視野を保つ心のゆとり、その両方が必要だ。スタッフ一人一人が良いコンディションを保ち、組織がうまくまわっていくためには日常業務にどんな仕掛けをつくればよいか、模索の日々が続く。

単に儲けるために仕事をするのではない。だが、いい仕事は残っていくべきだし、そのためにも再生産可能な利益を生み出す必要がある。仕事は結果を出してナンボだ。農業で安定して収益を上げるのは簡単ではない。だからこそ、「いい仕事」を続けられるような仕組そのものを創り続けるというのが伊賀ベジの考え方の基本にある。

出来上がったシステムの枠組のなかに留まっていては、先の見通しは開けてこない。とりわけ農業には過去の歴史と既存の制度にがんじがらめに縛られている部分が多い。先輩達から学ぶべきことは学びつつ、次の時代を見越して業界全体を変えていく動きが必要になるだろう。文句や愚痴でなく、具体的で実効性のあるプランを提示し実践し続ける。未来のカタチを作っていくのは他ならぬ私たちの責任だ。

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農業という仕事

農業は生産そのものが日照時間や気温・雨量などの天候に大きく左右されるし、生き物を扱うこと特有の難しさがある。露地栽培なら風雪雨や鳥獣による被害にあうことも日常茶飯事、思い通りにはならないのが当たり前の世界だ。とりわけ有機農業というスタイルを選ぶと、化成肥料や農薬を使わないことでリスク幅は大幅に上積みされる。

それでも農産物を販売する以上、必ず求められるのは生産の安定性だ。どんなに品質の良いものでも、それを安定して届けられなければお客さんはそっぽを向く。雨が降ろうと、虫が大量発生しようと、それはあくまでこっちの事情である。植物生理をはじめとした自然現象の理解に努め、様々な変動要因を見通してコントロールすることで、安定して生産物を提供する、それが農業という仕事の本質である。

優れた農業者になるには、潜在的なリスクにできるだけ早く気づき、予防策や事後の対応策をあらかじめ準備し、得られた経験や知識を確実に記憶・記録して次の改善につなげる、そうした一連の習慣を身につける必要がある。「やってみなくちゃわからない」は禁句、頭をフル回転して思案を尽くした後の最後のせりふだ。どんなリスクも「織り込み済み」にして、何事も無かったかのようにこなしていくのが本物の技術である。

基本的な例として雑草の管理が挙げられる。農作業をしたことがある方ならお分かりだろうが、雑草の茂るスピードはすごい。夏草など油断して放っておくとあっという間に手に負えなくなる。例えば人参の種まきをして、発芽した芽が雑草に完全に覆われてしまってから動き出すようではプロの農業者としては落第だ。「上農は草を見ずして草を取る」という言葉のように、達人は雑草の芽がほんの少し出たころでサッと効率よく除草する。それを何年も繰り返すうちに雑草の種がない畑になり、何をするにも作業効率がよく、常に先手を打てる、そういう良いループに入っていく。素人が見て草の生えていない畑だなぁ、と思うところには足掛け何十年の歴史が折りたたまれているのだ。

新入は様々なリスクに気づくことができない。さまざまな失敗を繰り返して次こそは改善、と思いながら、日々の仕事に追われる中、「明日への布石」はついつい後手に回ってしまう。

雨が降ればどうなるのか、肥料の見立てが甘かったら、苗の温度が上がりすぎたら・・・、というような数限りないリスクを頭に叩き込み、それを乗り越えるノウハウを蓄積して一人前の農業者として動けるようになるには、少なくとも2~3年はかかる。その道何十年、長きに渡って生き残ってきた先輩たちのノウハウは決して侮れない。どこにどんな知恵が隠れているか分からない。若手は暇さえあればベテラン農家を訪ねて畑や作業場を覗き、農業談義をしながらノウハウを盗んでいくものだ。

だが、いざ農産物を販売する段階では、新入りも歴戦のベテラン達と同じ土俵で勝負しなければならない。細かな工夫や身体の動かし方の差で、同じものをつくるにも効率は全く違う。それは当然、正味利益の違いに現れる。後発組は設備投資の負担も大きく、畑も条件が悪いことが多いので、そこには想像以上の埋めがたい差がある。新規就農して売り上げを大きく伸ばしている、という話を耳にしても、その多くが農家の子弟だったりするのも無理はない。

伊賀ベジのように後発で、都会から移ってきた若い人間ばかりで構成されたチームはハンデだらけ。インターネット等を駆使して世の新しい技術をどんどん取り込み、就農以前に培った人脈を通じて独自の販路を開拓するなど、周りとは違った動きをしなければ生き残れない。ぶら下がろうという意識で入ってくるスタッフを抱える余裕は無い。何よりも「いい」仕事をしたいという想いを共有できるかどうか。一人一人が独立就農するのと同じくらいの緊張感を保ち、潜在するリスクを敏感に肌で感じとって主体的に動くことができなければ、利益を上げるなどとても覚束ない。

農業という仕事

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有機農業のリスク管理

有機農業は通常の栽培にくらべ、圧倒的にリスクの高い生産方法だ。そのリスクをどこまで「織り込み済」にできるかが、ビジネスとしての成否を握る。その対応としては、①安定して収穫できないことを前提にした販売方式をとる、②栽培技術によりリスクそのものを減らす、という両方向のアプローチがある。

業界では数年前までどちらかといえば①が主流であった。定期購入の契約者に季節の農産物盛り合せ「セット」を販売するビジネスモデルである。個人の産直から大手の流通業者まで、有機農産物の販売といえばこれだった。お届け内容はその時々に手に入るもので決まる、という大らかなスタイルだ。

この仕組みは、有機農業が単なるモノの売り買いではなく、生産者と消費者との間で顔の見える関係をつくり、将来の社会や環境のことを考えて連携するという「運動」の要素を持つからこそ続いてきたものだ。それは、生産者、流通業者そして消費者が相互の信頼と善意によって、相応のリスクを分かち合いましょう、という考え方だった。

伊賀ベジも5~6軒の農業者からなる出荷グループを通じて流通業者と栽培契約を結び、セットに入れる野菜数品目を出荷するかたちが中心だ。多少生産が不安定なときがあっても取引先やグループの仲間にカバーしてもらうことで何とかやってこれた。

しかし、ここ何年かの間に業界の情勢は大きく様変わりしつつある。購入する層の意識から「運動」の要素が薄まり、ブランド・高付加価値商品としての有機農産物、という捉えかたが一般化してきたのである。業界大手の意識も、生産者と消費者をつなぐこと自体を目的にするより、販売戦略としての消費者ニーズ、マーケッティング戦略を第一優先する方向へと変わってきている。農産物セットという、消費者側にとっては融通の利かない販売形態ではなく、インターネット上で欲しいものだけを単品で購入するスタイルが一般化してきたのである。

その背景には、生産者の努力で②生産技術が向上して生産上のリスクが低減され、有機農産物も安定供給が可能になってきたことがある。土壌分析の普及、太陽熱消毒、微生物利用技術の進展など、最近のさまざまな技術革新は有機農業の世界を変えてきた。異業種から新規参入した多くの熱心な若い生産者らも変革の原動力となっている。これまでのような零細農家ではなく、施設で葉物等の有機栽培を大規模に行う経営体も増えてきた。

そうした世の流れのなか、伊賀ベジはどこへ向かい、どう生き残っていくのか、戦略のさらなる明確化が求められている。

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PDCAサイクル

伊賀ベジでは何事につけてもPDCAサイクルを重視している。PDCAとはPLAN(計画)-DO(実行)-CHECK(評価)-ACTION(改善)を指し、ともすればいつもどおり、言われたとおり、何となく漫然とやってしまう仕事を、可能なかぎり意識化し、改善し続けるプロセスのことだ。

農業は身体を動かすことが多いので、ひと仕事終えると満足感を得やすい。そんなスポーツのような要素は確かに農業の魅力ではあるが、「いい仕事」をするには絶えず改善を目指す「クセ」をつけないといけない。目の前の作業に集中しつつもそこに没頭しきることなく、客観的に全体を見回す意識を保つことが大切だ。

その作業は何のためか、目的意識をはっきりさせ、それに適った動きをしているかチェックする。作業が終わればそれが前回と比べてどうだったのか、あるいは周囲の人と比べてどうかを評価し、気づいた反省点を記録して次回の課題をはっきりさせる。このサイクルをどのくらい回せるかが、仕事における成長の全てを決めるといってもいい。がんばろうという気持ちなんかより、要は習慣形成をできるかどうかだ。農業は繰り返し作業が非常に多い。だからこそ、毎回の作業での気づきや発見、それを忘れずに次に生かせるかどうかが大きな差を生む。

課題意識をもっていると、作業に入る前のイメージトレーニングの大切さが見えてくる。よく言われることだが、どんな仕事も段取八分だ。想定されるリスクを数え上げて織り込み済みにしておけば、何かあっても容易に軌道修正できる。熟練者はその仕事が上手くいくかどうか、計画段階でおおむね分かっているものだ。ギャンブルするとしても、外れたらどう対処するかを意識した上で意図的にギャンブルしている。そしてもし予想外の失敗(=新たな発見)があれば、それを記憶・記録して次の動きに生かすことができる。

PDCAは安定して成長ループを継続するためのチェック機能だ。伊賀ベジのような若い組織では、個々のメンバーの成長をいかに補い合い、伸ばしあえるかが存亡の鍵を握る。1+1が2になるだけでは組織のメリットはない。3や4になる、つまりシナジー効果を生むためには、個々のPDCAプロセスを共有化することが重要だと考えている。

PDCAサイクル

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伊賀ベジの組織運営

組織としてPDCAを実践するために、伊賀ベジでは朝礼・終礼、週打ち合わせ、月毎の生産工程会議、半期に一度程度の経営戦略会議というように、会議をチェック地点とする幾重かのサイクルを設けている。大きなサイクルから小さなサイクルまで、漠然と動き出さず、ちゃんと計画を立て、事後の振り返りを行っていくための仕掛けだ。会議は重要な業務の一環として位置づけられており、出勤スタッフは全員参加するのが原則だ。

とりわけ早い段階から重視してきたのは生産工程会議だ。半年程度の基礎トレーニングを終えた段階で、独立を目指す研修生や圃場管理を任せるスタッフには担当作物を割り振り、出荷目標数量と使用圃場の面積や土壌分析結果、資材の在庫情報などの条件を与える。それを元に今後数ヶ月にわたっての作業工程とスケジュール、圃場の畝レイアウトと施肥設計、種や肥料や被覆資材などの必要資材のリストアップと調達計画、栽培上の留意事項や前回から改善すべき点などを網羅した「生産計画書」を作成してもらう。その計画書をスタッフ全員で読み合わせ、様々な角度から議論をつくしてブラッシュアップしていく。

そして、計画に基づいて栽培を進めるなかで、進捗管理状況の報告・チェックを適宜行いながら、出荷が完了すれば「生産報告書」をまとめてもらう。そこでは実際に行った作業の記録、全ての売り上げと使用した資材や作業時間を集計して算出した収支報告や、栽培の観点で良かった点悪かった点に関する報告・引継ぎ事項などが含まれる。この報告書をもとに、次の担当者はまた、新しい生産計画書を作っていくのである。計画~報告書のフォーマットが何代かの研修生・スタッフの手に渡るうち、そのレベルは着実に上がっていく。

経験の浅いスタッフに任せるとしても仕事は仕事である。「教育のため」として手を抜ける仕事は存在しない。栽培や施肥に関する技術には難しいことも多いが、課題解決の道筋が見えてくるまでは時間が許す限りスタッフと一緒に考え続けるようにしている。

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人材の採用と育成について

伊賀ベジが最も重視していることの一つは人を育てることだ。就農して以来、6年半のあいだに受け入れた長期研修生の数は14人(半年以上雇用)。うち少なくとも10人は何らかの形で農業に継続して従事している(うち自社残留4名)。このほか短期・不定期・体験で来る人もふくめると相当の数にのぼり、絶えず人が出入りしている農場と言っていい。

最初のうちは自社に雇用を続けるだけの経営体力がなかったし、スタート時点から「自立」というテーマを強く意識していたこともあって、独立経営を目指す人に限って研修を受け入れていた。2012年に法人化してからは基幹スタッフを育成するため、少しずつ採用の形を変えてきてはいるが、今も「会社に入りたい」という意識が先に立つ人は基本的に採用しない方針だ。自分なりの目的意識をしっかり持ちつつ、伊賀ベジのスタッフたちが形作る「文化」を感じとり、そこに魅力を感じて引き寄せられてくる人と一緒に仕事をしたい。スタッフは最終的に独立しようがここに残ろうが、自立して本当に「いい仕事」をする人になってくれればいい。どこに居ようとそういう<仲間>が一人でも増えることが後々でプラスに働くと考えているのだ。

そんな背景もあって、伊賀ベジでは研修生と社員という区別は設けていない。また、現状ではパートもおらず、スタッフは全員正社員だ。自分が農業の世界に入ったころ、ただ働きを前提とした構造に強い抵抗感を感じたこともあり、賃金などの待遇面は少し背伸びをしてでも整えたい。職能別に定めた賃金体系をあらかじめ提示し、残業代もタイムカードどおりきっちり支払う。

伊賀ベジでは雇用に際して、ほとんどの場合は助成金(農の雇用事業、緊急雇用創出事業等)を利用している。現在の待遇はそうした助成金を土台にしているから維持できるのであって、私のような新規就農者が農産物の収益だけで賄うにはちょっと厳しいくらいだ。世の流れとは逆行するかもしれないが、私はやはり、人への投資は機械設備への投資以上に必要なものだと思う。それにまた、公の意志(国の税金)を受ける以上、それを自分の懐に入れてしまうのではなく、人を確実に育てるための原資とするのが正当な使い方だという思いもある。

持ち出しが続く期間も長かったが、ようやく最近になってそんな「人への投資」が実りつつある。伊賀ベジという組織が、私の指示なしでも動ける、自立した組織として機能しはじめている。もう少しがんばって転がし続ければ、会社は単なる箱・入れ物ではなく、自立した個が有機的に繋がった一つの「生命体」に近付いていくだろう。

事業は人を幸せにすることを目的とした活動だ。お客さんを喜ばすことに留まらず、サービスを提供するスタッフ自身も、さらには社会全体、子孫や周囲環境に至るまで、事業に関係する全ての生命が幸せになるかたちを求めることが理想的だ。

植物を育てることと人を育てること、生き物が自ら育とうとする過程に寄り添うという意味で、そこに共通する部分はとても多い。種をまかない限り芽は出ない。日の光を浴び、水と栄養を吸い上げなければ命は伸びていかない。辛抱強く成長を見守り、生きる意志を支え、強める。観察を続け、良い性質を伸ばし、選択的にえこひいきをする。

生命を「手段」として用いないようにすること。生命はそれ自体が一つの「目的」である。農業という生命を直接に扱う産業だからこそ、その倫理が決定的に重要だと私は思う。

人材の採用と育成について

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3.有機農業の技術について思うこと

植物生理の基本

植物の体をつくる有機物は、元をたどれば光合成産物である糖から合成されたものだ。つまり、収量を上げることは光合成をできるだけ効率よく行わせ、得られた糖を無駄なく、バランスよく体に変えさせること。植物の機構(植物生理)を理解し、そこに影響を与える要因を様々なかたちで制御するのが栽培技術だと言える。

なかでも重要な技術の一つは、植物が根から吸い上げる養分(肥料)を光合成の進行に合わせて補充する「施肥」技術である。植物が養分をどのくらい必要とするかを知るには、植物の組織を構成する有機物を大きく次の2種類に分けて考えると分かりやすい。

【炭水化物/繊維CHO】 幾千・幾万の糖が結合してできるのが炭水化物だ。なかでもセルロース(繊維)は植物のからだを支える細胞壁の主要素材で、いわば「骨格」の役割を果たしている。

細胞のつくり

【たんぱく質CHO-N】 細胞の「なかみ」は主としてたんぱく質でできている。たんぱく質は窒素(N)を含む有機物であり、光合成でつくられる糖と肥料として吸収する窒素が主な原材料だ。

農家が「肥料をやる」という場合、通常、窒素を与えることを指す。細胞の主成分「なかみ」はたんぱく質なので、肥料をやれば植物の生育が促進される。しかし、天候不順等であまり光合成ができない場合、吸収した窒素に見合うだけの炭水化物を確保できない。そのため「骨格」をつくるセルロースの合成が後手にまわり、骨材が少ない手抜き工事になってしまう。そうして軟弱化した植物は虫や病気に対して無防備になりやすい。

農産物の品質を保つためには、植物を健康に育てる必要がある。それは、栽培時に植物の生育ステージに応じて光合成と肥料(とりわけ窒素)のバランスをどれだけ制御できているかに懸かっているといえる。

肥料が効きすぎた場合、炭水化物が不足がちなので、糖やビタミンなどが十分作られず、とろけやすく日持ちしない、不味いものになりやすい。逆に肥料が効かなかった場合は、筋っぽくて硬く、小ぶりで瑞々しさに欠けたものになる。

農産物の品質を左右するのは、化成肥料か有機肥料かというより、それを作る農業者の技術レベルの影響がずっと大きい。それでも、あえて個人的な印象を言えば、有機栽培の場合には美味しいものに出会う確率が高い気がする。農薬を使えない状況では肥料バランスを保つことが決定的に重要になるため、植物に応じた最適施肥を心がける生産者が多いからではないだろうか。

窒素光合成バランス

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化成肥料を使わない理由

有機農業では化成肥料を用いないが、その背景まできちんと把握している人は意外と少ない。ここで整理しておくこともあながち無駄ではなかろう。

植物の生育に不可欠だが土壌に不足しがちな元素の上位3つが窒素(N)、リン酸(P)、カリ(K)であり「三要素」と呼ばれる。化成肥料はこれらの元素を必要な量だけ含むよう、工業的に製造されたものである。即効性で使い勝手に優れているため、世界の食料生産は化成肥料に強く依存している。地球の窒素循環のなかで土壌に入る窒素の約半分は合成由来の窒素といわれている。公の農業関係機関も、地域別、作物別に化成肥料の使用を前提とした指導体系を整えている。

だが、化成肥料の窒素分を得るため、空気中の窒素ガスから合成する際には天然ガス等の資源を消費しており、世界のエネルギー消費の2%程度が用いられている。化成肥料の使用を減らすことは、資源の消費を低減することにつながるのだ。他の2要素(P、K)も採掘された鉱石から作られていて、限りある資源という意味で同様のことが言える。ここ最近は鉱石の供給が逼迫して価格高騰が進んでいる。切迫度はかなり高いといえるだろう。

化成肥料の使用を制限するもう一つの理由は、無機態の窒素が水に溶けやすいため、圃場から流亡しやすいことである。農地から流亡した窒素分はやがて河川や海洋に流れ込み、水質汚染の要因となる。深刻な例として、米国のミシシッピ川河口域での広範囲なヘドロの発生(デッド・ゾーンと呼ばれる)が挙げられる。ヨーロッパでは河川汚染が確認されたため、1990年代から土壌への窒素投入について厳しい制約を設けるようになった。我が国では農業由来の環境汚染が表立って問題視されることはあまりないが、今後も注意をしておきたいテーマではある。

注意すべきは、有機肥料や堆肥でも過剰投入すれば同様に環境汚染が起こることで、化成肥料を使うかどうかではなく、植物生理や環境負荷に見合った適正な施肥が行われているか、それが本質的な課題である。

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資源循環の取り組みと化成肥料

有機農業者が化成肥料を使わない背景には「経済的な」事情もある。肉や卵、牛乳など、日本人の豊かな食生活の裏で、家畜の糞尿や、売れ残り・食べ残しなどの食品残渣が大量に排出されている。その多くは焼却・埋め立て処理されるが、一部は堆肥化されて耕種農業者に提供される。ただし、とにかく量が多いので、農作物の栽培に必要な量を大きく上回ることは日常茶飯事だ。当然、価格も安い。高いお金を出して化成肥料を買うより、こうした堆肥を利用するほうが経済的と考える農業者は多い。

単純にNPKの量で考えれば、今の日本には肥料成分があふれているのだ。それを有効活用せずに、わざわざエネルギー資源を消費して作った化成肥料を用いるのは、社会的全体として効率がよい選択とは言えない。資源を再利用する循環の仕組みをつくるために、食品廃棄物を農地に還元することは歓迎すべきである。

だが、行き過ぎたケースが多いことには十分な注意が必要である。なかには廃棄物処理業者が農業生産法人を立ち上げ、有機農業者が通常使う量の数十倍におよぶ大量の「堆肥」を圃場に投入し、実際にはほとんど栽培を行わないケースも見られる。

廃棄物の処理料は年々上がる一方だ。農地への廃棄物投入を主業とすれば、細々と野菜をつくって販売するよりずっと儲かる。農業振興がうまくいっていない地域では、農地は着々と産廃処分場に変わっている。国は廃棄物の堆肥化を推進しながら、土壌への投入に関して実効性のある規制を行っていないため、実質上こうした農地への投棄システムを黙認・推奨していると言える。

そんな情勢を見るにつけ、循環資源の利用、化成肥料の使用制限については、もはや有機農業などという枠を超え、社会全体の課題として考えるべき重要なテーマではないかと私は思っている。

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有機物の肥効をコントロールするために

化成肥料を使わない場合、有機物つまり生物由来の様々な資材を活用することになる。いくつかの課題があるが、中でも最も重要で、技術的に難しいのが適正施用量の決定だ。生物由来の窒素(たんぱく質)は、土壌に投入され微生物による分解過程を経てから植物に吸収される。その分解速度は温度や水分、微生物の量などによって大きく変わる。

施肥が過剰になると、生育は旺盛だが病害虫が出やすい状態になる。有機農業者は農薬を使用しないか、マイルドな微生物資材などに限定しているので、抵抗手段が限られており被害が広がれば生産物を廃棄せざるをえない。加えて過剰施肥を行えば多くの窒素を下流域に流亡させてしまうことにもなる。

反対に雨が大量に降ったり、秋冬の冷え込みが早く来た場合、土中の肥料成分が流亡したり分解が進まなくなって作物が大きくならず収穫できない。有機肥料は遅効性のものが多いから、ヤバいと思ってから追肥をしても効果が薄いのだ。

実際のところ、化成肥料を使わないことは技術的に相当大きなハンデキャップである。そうした厳しい条件のもとでも肥料成分の読みを正確に行い、安定して慣行栽培並に収量を上げる有機農家が周りにいれば、その技術は高く、「篤農家」と言っていいだろう。

しかし、一部の篤農家に頼る形では有機農業のシェアは今後も伸びない。土壌や肥料に含まれる有機体窒素の実効成分を測定し、最適施用量を決めるシステムが強く求められている。

伊賀有機農業推進協議会ではこのシステムの実践・普及へ向けた取り組みに力を入れてきた。4年に渡る実証試験を続けるうちに、実用性にもそれなりの目途がついてきており、今後は普及段階に移行する予定である。これは化成肥料を自由に使える現在の環境では必要性に乏しくピンと来ないかもしれないが、今後資源の逼迫化が進むに従って、間違いなくニーズが高まってくる技術である。

有機物の肥効をコントロールするため

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農薬のこと~EUのネオニコチノイド規制をうけて

農薬の環境への影響については、今まさに、世界中を巻き込む議論と駆け引きが展開されている。ネオニコチノイドと呼ばれる殺虫剤の生態系への影響についてである。
殺虫剤はこれまで主力を担ってきた有機リン系農薬は人体への影響が強かったため、近年、人体にほとんど害を与えないとされるネオニコチノイド系にシフトしてきた。ネオニコチノイド系農薬は有機リン系と同様、昆虫の神経経路を阻害する、言ってみれば「狂い死にさせる」効果を持つ。水によく溶けて浸透性が高いため吸収されやすく、効果が持続するので、使用量や回数を減らすことが可能だ。農薬使用の程度は「回数」で判断されるから、うまくコントロールすれば減農薬、「特別栽培」で扱うこともできる。

だが、ここ十数年のあいだに世界中で発生して話題になったミツバチの大量死が、ネオニコチノイド系農薬によって引き起こされた可能性があるとする研究が出てきた。また、人体に対しての影響もゼロではない、ということも指摘され始めている。

そんな流れのなかで、ヨーロッパ(EU)では2013年12月から疑わしいとされる浸透性の強い3種のネオニコチノイド系農薬の使用規制に踏み切った。科学的な因果関係は立証されていないにも関わらず、2年間限定で、疑わしいものは当面用いない方針を決めた。今後判断を決めるための「予防的取組」という、きわめて政治的な動きである。

EUでは2009年に有機リン系殺虫剤の大部分を禁止した経緯もあり、同じ先進国のなかでも米国や日本とは立ち位置を大きく異にしており、それは有機農業推進の姿勢にも顕著に打ち出されている。この問題は経済的・政治的な利害が複雑に絡み合っており、扱いが非常に難しいものだ。だが、EUが志向する方向は、有機農業に取り組んできた私の意識と重なる部分が多く、今回の決定にはとても勇気づけられた。
科学は「本当のこと」を見つけ出すための方法論である。それはあくまで認識や理解を深めるための道具であって、現実にどういう行動をとるべきかを直接示すわけではない。一人一人の行動は置かれた状況やそれぞれの生き方に根差した判断で決まり、社会全体の動きはそうした価値観の衝突と統合、つまりは「政治」にしたがって動く。

農薬をどう扱うかは科学の問題ではなく、価値の問題である。そこを押さえておかないと解決の糸口がないし、議論は永久に平行線をたどる。最終的に農薬を使うか使わないか、農薬を使った農産物を買うのか買わないのか、その判断はあなた自身の生活の選びかたを表すだけだ。昨今大きな話題になってきた、遺伝子組み換え(GM)植物についても同様である。

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農薬を使わないという選択肢~ハンデをチャンスに

農薬を使わない選択肢を取る場合、生産者は技術的に大きなハンデキャップを負う。人の手が入る環境のもとで改良され続けてきた栽培品種は、病害虫に対する抵抗性が弱い。栽培している植物の生育を妨害する生き物にどう対抗していくか、それは常に大きな課題だ。

ただ、病虫害の発生の程度は、植物の健康状態と密接に関係している。有機、慣行を問わず、植物生理の十分な理解や、土づくり・肥料設計、日常の潅水や換気、受光といった管理作業のきめ細かさ、つまり農業者が丁寧な仕事をしているかどうかが健康状態に大きな影響を与える。こちらの都合、主観的な想い・気持ちだけでは駄目である。自然の特性をどこまで深く理解しているかがストレートに結果に現れる。

病害虫や雑草が発生する条件をつくらず、常時観察を続け、適切なタイミングで適切な対応をピシャッと打つ、そうした一連の総合的な対応技術は「IPM」と呼ばれていて、今、世界各地で研究が加速されている。有機農業に携わる人間もそうした業界の最新の動向に注意を払いながら、農薬を使わないからこそ得られるノウハウを蓄積し、整理していけば、それを大きな武器に変えていくことができるだろう。

何にせよ、一番基本的で重要な点は、適期適作の原則を踏まえ、無理な時期、無理な場所で農作物をつくらないことだ。季節感や自然に対する感覚そのものを失いつつある現代にあって、お客さんに対して農産物は生き物であることを丁寧に説明し、理解してもらうことは、商売以上に大事なことを含んでいる。旬のものを旬に美味しく食べてもらう、それが栽培上の都合と一致することも多いのだ。

実際に畑に足を運んでもらったり、食材を使ったイベントを行ったり、インターネットを活用して紹介動画を作成したり、様々な形での情報提供が今後ますます重要になるだろう。地道な活動こそ一番の早道だ。単なる「モノ」の枠に留まらず、そこに関わる「ヒト」、「コト」、そしてそこに纏わるストーリーの重要性が増している今だからこそ、有機農業者はきっとそのハンデをチャンスに変えることができるはずだ。

ハンデをチャンスに

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4. 農業者連携について

生産者連携の必要性

農業の現場に携わっていると、個々の生産者が技術力や営業力を磨くだけではどうにもならない課題にぶつかることがある。例えば価格決定権。農業では小規模な経営体が中心で、生産者が原価をきっちり価格転嫁するのは厳しいのが現状だ。単独でブランド化をはかって成功している事例は華々しく語られるし、そこに目が行きやすいが、それはごく限られた「勝ち組」の話だ。こつこつ真面目にやっている生産者の経営環境の改善について、業界全体でもう少し語られてよいと私は思う。

流通の目線からみると、技術水準をクリアしたうえで、年間通じて安定的にまとまった量を供給でき、窓口事務対応がしっかりできる産地が評価される。そうした機能を持つには生産者の連携した組織の存在が不可欠で、組織の優劣は生産者の懐具合に直結する。これまで各地の農協組織がその役割を担ってきたが、今は限られた産地を除いて、専業農家が満足できる役割を果たせていない場合が多い。小規模産地や有機農業のような特殊な分野では、単独で思い切った大規模化を図るのでなければ、生産者同士がどんな連携を進めていくかが生き残りの鍵を握る。

日本の農業には総生産額額と同額規模の税金がつぎ込まれている。戸別保障制度のような直接支払制度から機械設備の購入、雇用助成まで、様々なかたちで提供される補助金の「下駄」を履くかどうかで競争力は大きく変わる。だが、業界内での補助金の配分には組織力・政治力が大きくモノを言うことは否めない。最近では浅く広く配るより、政策意図を反映して少数精鋭に注ぎ込む「戦略的えこひいき」が一般的になってきている。今後は農業予算の縮減が見込まれるなか、組織の情報収集能力やプロジェクト企画・運営能力がますます問われるようになるだろう。

有機農業者の場合、利益追求を最優先とする人はむしろ少数だ。環境への配慮、多様な生態系の保持、豊かな人間関係づくり、持続可能な社会の実現など、生産・販売方式の選択を通じて何らかの社会的課題の解決を目指す人が多い。産地形成や補助金に消極的な人もいるが、現実に様々な社会的課題に取り組むには情報やお金の流れをつかむ必要があるし、そのためにも多様な主体が共存できる枠組づくりが欠かせない
最後の章では私が運営に関わってきた「伊賀有機農業推進協議会」の取組を紹介しながら、農業者の連携のあり方に一石を投じてみたい。

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協議会設立の背景

伊賀有機農業推進協議会(伊有協)は2010年3月、三重県伊賀市、名張市および周辺地域の農業者や消費者、小売店や飲食店その他の流通業者、大学や高校、医療、行政など、有機農業を広めたいと考える様々な関係者が連携して設立された。有機農業推進の活動を通じて、地域全体で持続可能な社会を目指す取組を行う「オーガニックタウン伊賀」の実現を目指している。

伊賀地域は古くから有機農業が盛んな地域で、40年以上取り組んできた生産者や農業関連団体がいくつも存在し、全国的に名の知られた高い技術レベルを持つ篤農家もいる。そうしたベテランの指導を受けて独立した次世代の若手の層も厚くなってきている。それぞれの農家が個性的でカラフル、ネタの尽きることがないエリアである。農家数にして40軒以上、野菜や米、茶など、有機農産物(JAS認定不問)の総生産額は2億円に迫る。

その密度の濃さのわりに一般にはほとんど認知されておらず、地元でも伊賀が有機農業の盛んな地域であることを知る人は決して多くなかった。生産者ら数人でグループをつくり、契約栽培のかたちで限られた客先と閉じたサークルを形成してきたことが理由の一つだろう。有機農産物に対する需要は安定していたし、一般向けに広く宣伝する必要はない。それぞれ強い想いを持って独自の活動をしているから、生産者同士がグループを超えて交流する機会は決して多くなかった。

加えて外から移住してきた新規就農者らは地域社会との繋がりが薄く、有機農業特有の反体制的なポジション(資本主義や権力、文明への批判)ゆえに行政や農協との関わりも少ないので、公的なバックアップを受けづらい。我が道を行く頑固な変わり者(関西の言葉でいう「へんこ」)たちがバラバラに活動していて、地域全体を巻き込む動きに繋がらなかったのである。

それでも技術交流、出荷の助け合いやマーケットの開催、新規参入者の受け入れなど、地域の有機農業の発展を考えれば、連携が大きな意味を持つのは明らかだった。そうしたヴィジョンを持った関係者の粘り強い呼びかけで話し合いが繰り返し持たれ、伊有協の設立構想が練られていった。設立に際しては、伊賀市に拠点を置く全国的な農業者組織で、長らく有機農業の推進に尽力してきた社団法人全国愛農会(名前は当時)が事務局として中心的な役割を果たした。

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生産者の巻き込み

伊有協の設立当初は、どちらかといえば消費者や自給的な農業者を中心に、定期的に集まって意見交換をしたり、健康や食の安全に関する講演会を開催したり、繋がりを醸成するための緩やかな市民運動的な活動が展開された。だが、設立から数ヶ月後、国の産地収益力向上プログラム(有機農業地区推進事業)の事業実施が決まると、活動を取り巻く状況は大きく変わっていった。
このプログラムは有機農業を組織的に進める「産地」の形成・強化を目的とする助成事業で、有機農産物の生産拡大に関する数値目標が設定されていた。その目標を実現するための長期戦略(ロードマップ)が描かれ、その下に生産技術、販売戦略、人材育成などに関する事業計画を組み込んだ総合的な取組が謳われている。(ヴィジョンの概要を示したものが図3)


設立時のメンバーは外部からコンサルタントを招いて事業計画を策定してもらい、助成金の獲得には成功したものの、それを実際に運営するには多くの生産者の協力が不可欠であった。にも関わらず、プログラム開始時点で生産をしっかり行っている専業農家の参加はごく限られていた。私自身も頼まれて設立発起には関わったが、まだ就農3年目で農場の作業だけで手一杯。目的や責任所在があいまいな「ゆるい」活動とは距離を置いていた。
しかし、私はその一年程前から愛農会で会場を借りて、研修生らのために植物生理や施肥理論の自主勉強会を定期的に開催していた。この取組をプログラムのなかに位置づければ予算が確保できるとの説明を受け、そこに先進地視察や土壌分析の取組を加えていけばよいということで、技術関連事業の運営を任されることになったのである。

そこではじめて事業計画を熟読し、プログラムの全体像を把握してみると、これが実に良くできていた。生産者が連携してこの「強化プラン」を本気でやりきれば、産地として相当の力をつけることができる。どうせ官僚やコンサルが描く計画なんて・・・、と決め付けていたことの誤りに気づき、計画を絵に描いた餅にしないため、自分にできることからやりはじめた。

まずは地域の有機農業者を直接支援する内容である以上、この運営には生産者自身が積極的に関わるべきだと考えた。月に1~2回、定期的な農家同士の情報交換会を企画し、顔を見知った生産者らに片端から声をかけた。名だたる「へんこ」たちをどう説得していくかは悩ましかったが、皆が求めるものを想像しながら将来ヴィジョンを描き、できるだけ多くの農家を取り込むための情報発信を続けた。

日々の忙しい農作業のなかで時間を割く以上、会合に際して問題意識や目的は常に明確にするようにした。また、体裁や形式的なことは省き、参加する一人一人が自分の居場所を見出して、持ち帰る「実」のある集まりになるよう気を配った。互いをよく知り、新たな参加者に疎外感を感じさせないために、自己紹介も毎回必須。時折それぞれの圃場を見学する機会を設けながら、生産技術などに関するアンケートも実施して地域の有機農業者が抱える課題の抽出と共有を進めた。

無理強いをせず、楽しそうにやっているうちに、人は自然と寄り集まってくるものだ。プロジェクトを企画・運営する人間の情熱や本気度に比例して周りを取り囲む輪は広がっていく。お互い探り探り、という感じではあるが「へんこ」たちの距離は縮まっていった。

翌年春には様々な周辺関係者とともに、多くの生産者に理事として名を連ねてもらった。来るもの拒まずの雑多な構成、総勢20名余の大きな理事会。何しろ強烈な個性をもった人ばかりで、皆が協調しているというより、ガヤガヤ集まって「まとまったフリ」をしているといったほうが正確だ。だが、フリも続ければやがて本物になっていく。多様性を包括しながら連携を進めるには、そんな要素も必要だった。

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伊有協の主な活動と今後の展開

伊有協の活動は多岐に渡るが、有機農業の推進に関わる①生産技術、②販売促進、③人材育成、④事務局機能の4つの分野での特徴的な取組を紹介する。

①生産技術の向上については、土や肥料(堆肥)に含まれる有機態窒素の実効成分を簡易に測定(または推定)する方法と、それを施肥に生かすノウハウの検討を続けてきた。共同研究の形で県や大学の協力も得て、十数軒の農家に測定キットを配布して施肥への活用を試みる実証プロジェクトも行った。

この取組は、通常公の研究機関や専門の農業コンサルタントが主導する研究開発を現場の農業者らが企画運営している点で画期的といえるだろう。製造業者が自社で研究開発するイメージに近い。現場に焦点をしぼった実用性の高い技術に注力できる半面、経営体力の弱い小農家の集まりゆえの運営上の厳しさもある。今後は計測器メーカーなど企業に提携を呼びかけ、施肥設計システムの実用化と普及を目指す方針だ。

②販売促進については、伊賀地域の有機農業に対する認知向上を狙ったイベント「伊賀オーガニックフェスタ」を早い段階から開催し続け、これが徐々に地域に根付きつつある。有機農産物の販売はもちろん、自然食品や手芸品などを扱う小売や飲食の店舗出展を募り、楽しさや人のつながりを大切にするイベントづくりをすすめている。
同時にブランド化や農産加工品の開発にも積極的に取り組んできた。農業者や加工業者らが集まって販促部会を立ち上げ、アイディアやノウハウを出し合う賑やかな企画会議や試作を繰り返すうちに、様々なクリエイティブな発想が生まれていった。2013年秋にはこの部会の活動を母体として、会員生産者らが出資する新たな販売組織も設立された(株式会社へんこ)。


③人材育成。伊賀地域にはもともと名の通った農業団体や生産者が多いため、農業を始めたいという人が集まってくる素地がある。しかし長期の研修先を探す際、師弟の相性が合う・合わないは当然あるし、一つの研修先に留まると視野が狭くなる面も否めない。そこで伊有協の幅広い生産者のネットワークが生きてくる。協議会が一役買って間を取り持ちながら、研修を受け入れる農家同士が情報交換を行い、研修生の希望に応じて研修先の変更・ローテーションなども行っている。

また、就農を目指す研修生や若手農業者らに対しては、植物生理や施肥に関する基礎講習会を常設している。1サイクル6回の内容で年2回、誰もが参加できるかたちで4年にわたって開催され、その修了者は100人を優に超える。昨年は忙しい農家や遠方の人のために、オンラインでのストリーム配信もはじめた。

④伊有協の事務局では、様々な問い合わせや要望に対応する窓口業務、情報収集や発信、会員の生産状況の把握、事業運営に関する諸事務などを行っている。こうした機能は連携を維持するために非常に重要だが、現実には専門的な事務局員を抱える余力のある組織や行政でないと荷が重い面もある。

伊有協では、設立から2年の間、農業講座や有機JAS認証などの事業を行っている愛農会が事務局を担っていたが、最終的には事業のメリットを直接受ける生産者自身が運営する形へと移行していった。個人農家であった私が農場を法人化し、伊賀ベジを立ち上げた背景の一つには、伊有協の事務局機能を充実させることで、伊賀地域の有機農業者らが持つポテンシャルを一気に開花させたい、という想いがあった。そして今、その想いは少しずつ実現されつつある。

農業を誰もが憧れる魅力的な仕事にしたい。厳しい環境のなかでも道を切り拓いていくために、全国各地で農業者による新たなかたちの連携の動きが現れてきている。伊有協の活動も間違いなくそうした潮流のひとつだ。

今の御時勢、モノづくりだけにしか目がいかないようでは先行きは厳しい。大切なのは、モノを生み出しヒトに届けるプロセス全体、つまり「コト」をどうつくっていくかだ。農産物をつくるヒト、運ぶヒト、手渡すヒト、調理するヒト、食べるヒト、そのリレーを様々な形で支えるヒト。人の輪をつなぎあわせ、よりよいカタチを目指すには、全体に心配りを続ける「ファシリテーター」の存在が必要だ。

伊有協という農業者連携の取組のなかから立ち上がった株式会社へんこは、今後、そうした「ファシリテーター」の役割を中心となって担っていくべき組織だ。まだまだ立ち上がったばかりで軌道に乗るには少し時間が掛かりそうだが、農業や地域に関わる様々な課題と向き合い、新たな仕組みを提案/実現していく農業関連の「トータルソリューション企業」を目指す。意欲ある農業者らを支え、育てていくためにも、各地で地に足着いた活動を展開する生産者らと連携し、時代をリードする状況をつくっていきたいと願っている。

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